松源院
江戸時代の高野神社には、神社を実質的に管理する存在として、天台宗の別当松源院がありました。
幕末期の松源院の社僧は忍證(1812~78)といい、越前国に生まれ、京都の蘆山寺で学修した天台僧でした。
松源院が別当を務めたのは明治2年5月1日まででした。
明治時代に神仏分離令が下され、神社の境内地にあった寺は地元小坂村(現高野の一部)が引き取るようにと結論が出され、
小坂村内に畑地を買い求めて梵鐘や石塔、高野神社ゆかりの仏像等も現地に移されました。
忍證を住職として比叡山延暦寺中の正覚寺の末寺とされましたが、檀家をもつことはなく、現在では、高野神社が
管理するに至っています。
鎌倉時代の製作となる木造毘沙門天立像や石造宝塔、南北朝時代頃の作かと見られる木造不動明王坐像などがあります。
木造毘沙門天像